リサーチペーパー「スイスの外交・安全保障政策」後編

昨日は教授の依頼により、新入生の前で30分ほど学生生活についてスピーチした訳だが、そこそこウケたようで安心した。問題発言(!?)も何とか最小限に抑えることができ、教授の助けでサークルの宣伝もさせていただいた。自分にとって本当に良い経験になったと思う。
ところで、7月には神戸大学で「関西国際関係合同ゼミナール」が開かれる。今回は後輩に主体になってもらい、我々4回生は他ゼミ同様、悠々自適にと行きたいところだが、どうやらそうも行かないようである…(苦笑)まぁ、そうはいいつつも個人的には「案ずるより産むが易し」で、やってみれば意外に何てことはないんだろうなと楽観的に考えている。とりあえず、私としては今後の後輩達の苦悩を見守りつつ、助言出来るところは助言し、協力していきたいと思う。
さて、前置きが長くなったが、昨日に引き続き以下ではリサーチペーパーの後半部分を貼り付けたい。今回貼り付ける部分は、リサーチペーパーのいわば核心部分である。昨日に引き続き御一読していただければ幸いである。尚、今回のリサーチペーパでは「スイスの核武装計画」について取り上げなかった。これについてはいずれ、何らかの形で取り上げられればと思っている。
3.スイスの外交政策
スイスはウィーン会議において正式に「永世中立国」として認められたことは既に述べた通りである。これ以降、スイスは永世中立を外交の基本方針とし、大国相手に巧みな外交戦術を繰り広げることになる。しかし、その巧みな外交戦術が後になって非難にさらされることもあった。以下に挙げるナチス・ドイツの金塊問題はその最たる例である。
1996年9月11日、イギリスでとある外交文書の存在が報じられた。内容は、第2次大戦中にナチス・ドイツがヨーロッパの占領地やユダヤ人から略奪した金が金塊として、当時、スイスのいくつかの銀行に預けられ、戦費調達に使われたほか、その大半が今なおスイスの銀行に残っているというものであった。この報道はすぐさまヨーロッパ中を駆け巡り大きな外交問題に発展した。これを受け、同年12月、スイス政府は第2次大戦中のスイスの行動を歴史的かつ法律的に精査するため、イスラエル、ポーランド、アメリカなどの歴史家や法律家からなる「独立専門委員会」を設立し、委員長にチューリッヒ連邦工科大学歴史学主任教授のベルジェ氏を任命した。この委員会は委員長の名前をとって通称「ベルジェ委員会」とも呼ばれている。ベルジェ委員会は2002年3月22日、最終報告を公表し、そこにはスイス国立銀行が遅くとも1941年には、取引対象の金塊がナチス・ドイツにより略奪ないし没収されたものであったと承知していたことが認定され、同時に大戦中のナチス・ドイツとの経済関係(戦時下の武器輸出や石炭・電力の供給など)において、かなりの中立違反があったことが指摘されている。
ここで、第2次大戦当時のスイスの状況を振り返ってみると、ナチスが政権を取った1933年以降、スイス政府はナチスのスイス侵攻の可能性から軍事費を強化する一方で、1936年には国内のナチス組織を非合法化、1938年には「中立」を際立たせるため「国際連盟」から脱退している。また、同時に国境警備も強化し、兵役年齢上限を60歳に引き上げ、「物価統制令」(1939年)や「女性動員令」(1940年)などの「戦時法」も施行した。これらの結果、国民の5人に1人の約80万人が軍隊に動員されることになった。1940年6月、ナチス・ドイツがフランスを占領してからは、スイスは周りを全て枢軸国に囲まれることになり、国内でも動揺が広がったが、同年7月25日、当時のスイス軍最高司令官であったギザン将軍が軍幹部をスイス建国の地・リュトリの丘に集め、「万が一の際は、アルプスの『砦』に引きこもり徹底抗戦する」と国民を励まし、ついにスイスは大きな被害を蒙ることなく終戦を迎えたのであった。
前述のナチス・ドイツとの金塊取引を始めとする経済的なつながりには、このような政治的・外交的な背景があり、ナチス・ドイツ優遇政策とも取れる当時のスイスの政策は、「中立」を維持する上での「ぎりぎりの選択」であり「苦肉の策」だったと言えよう。また、近年の研究では、ナチス・ドイツのフランス占領で動揺するスイス国民を力強い演説で励ましたあの救国の英雄・ギザン将軍も、ドイツ側の記録から1943年3月3日、ナチス親衛隊諜報部の最高幹部ヴォルター・シューレンベルク将軍と、ベルン郊外のピグレン村にて極秘に会談していたことが明らかになっている。会談でギザン将軍は、ドイツ側が先制攻撃を仕掛けてこない限りスイス軍は全面的な動員体勢はとらず、それは「ドイツ側の戦力増強に間接的に貢献する」ことになると述べたとされる。スイス政府のナチス・ドイツ優遇政策にせよ、ギザン将軍の発言にせよ、これらの事例は戦時下における「中立」維持がいかに困難なことであるかを如実に物語っていると言える。
さて、近年のスイスの外交政策を考える上で注目すべきは、2002年の「国際連合」への加盟である。永世中立を外交の基本とするスイスでは、戦後長らく「国際連合」への加盟が見送られてきた。その背景にあったのは「東西冷戦」である。たしかに、冷戦下における国連は米ソ両陣営対立の場であり、永世中立国・スイスは国連加盟によりこの対立に巻き込まれる危険があった。また、戦後長らく「国際連合」への加盟を見送ってきた理由としては、スイスに根付く「直接民主制」の存在も無視できない。
スイスは1291年の建国より「直接民主制」をとってきた世界でも珍しい国である。年に一度、州の18歳以上の有権者全員が一同に会し、知事や裁判官の選任・財政問題などを討議する「ランツゲマインデ(住民集会)」はスイス流民主主義の象徴だ。このように住民参加による自治が盛んなスイスでは、自らが決めた政策に中央政府が干渉することをことさら警戒する傾向がある。この傾向は、国連加盟を決する際にも色濃く反映されている。直接民主制が政治の基本であるスイスでは、特に重要とされる政治案件については「国民投票」が実施される。冷戦も終結間近の1986年、スイスでは国際連合加盟の是非を問う初の国民投票が行われているが、結果は75%の圧倒的な反対により否決されている。1994年にはPKO(平和維持活動)参加の是非を問う国民投票も行われているが、これも半数を超える57%の反対で否決となった。流れが変わるのは1990年代後半になってのことである。
1999年12月、アドルフ・オギ国防相(兼副大統領・当時)は、地元紙のインタビューで「難民がスイスに大量流入することを防ぐためにも、我々は今後、より積極的にPKOに参加するべきだ」、「将来的には、国外でも機関銃や装甲車、徹甲弾などで武装すればよい」と発言、これをきっかけにスイスのPKO参加に向けての動きは加速する。当時、スイスはユーゴスラビア・コソボ自治州に展開中のコソボ平和維持部隊(KFOR)に133人の兵士を派遣していたが、スイス国防法では国外での武器携行が禁じられており、派遣される兵士は原則として丸腰で、他国の軍隊(コソボではオーストリア軍)に守られながら兵站支援や医療支援を行うなど、活動は限定されていた。
2001年6月10日、スイスではPKO参加に関する2回目の国民投票が行われ、賛成51%、反対49%の僅差でPKO参加が承認された。これにより兵士の武装は正式に認められ、これまで限定的だったPKOも諸外国並に行えるようになった。また、この流れを受け国連加盟の流れも加速する。2002年3月3日に行われた国連加盟の是非を問う国民投票では、賛成53.5%、反対46.5%の賛成多数により、スイスは190番目の国連加盟国になった。前回の投票時(1986年)と違うのは、東西冷戦が終結し、米ソ両陣営の争いに巻き込まれる可能性が低くなったことと、PKOなどの国際協力任務の重要性が増していたことであろう。
このように、国民投票を経て国連加盟を実現したスイスであったが、EU(ヨーロッパ連合)への加盟には依然警戒心が強い。2001年3月4日、スイスではEU加盟に向けての交渉を即時開始すべきかどうかの国民投票が行われたが、この時は反対76.6%の大差で否決されている。スイスにとってEUはその性質上、政治的・経済的・軍事的な統合を目指しているという点で、自国の永世中立政策と相容れない面がある。また近年、スイスは「マネーロンダリング」の規制について取り組み始めているが、自国では重い罪に問われない「脱税」については、依然、顧客への守秘義務を盾にEUからの追及を逃れている。2005年、EUとスイスの間では国境審査を廃止する「シェンゲン協定」と難民情報の共有などを定めた「ダブリン協定」が締結されているが、当分は、EUとスイスの間でこのような実用的な形での関係強化が継続されていくことだろう。
4.スイスの安全保障政策
スイスの安全保障政策を考える上で欠かせないのは「国民皆兵」と「民間防衛」である。「国民皆兵」とは簡単に言えば徴兵制のことで、20歳から42歳までの兵役期間にあるスイス人男性(女子は志願制)は15週間の初任訓練と、職種によって異なるが、毎年または2年ごとに年十数日の現任訓練を受けることが義務付けられており、その訓練総日数は300日と決められている。スイスでは1991年、「良心的兵役拒否」が国民投票で認められ、それまで「いかなる理由があっても、兵役拒否は懲役」とされてきた軍事刑法が「信教・信条上の理由による拒否については例外扱い」と改められ、公共の福祉に役立つ勤労奉仕で代替させることが決まったが、実際に良心的兵役拒否が認められるのは毎年100名以下で、ヨーロッパの他の国に比べスイスでは例外的な規定として認識されている。
また、スイスにおける常備軍としての職業軍人は3700人程度のものであり、その他は全て民兵である。民兵はみな平時においては何らかの職を持っており、有事の際にあらかじめ定められた動員計画に基づいて召集される。しかも、48時間以内に35万人の民兵が動員可能だというから有事における動員計画の緻密さが窺える。訓練期間中の民兵は皆、仕事を休むことになるのだが、その場合「損失補償手当」が支給される仕組みになっており、企業はこの費用の80%を負担している。また、民兵はそれぞれ家庭に銃器の保管を義務付けられており、訓練にはそれを持参するほか、正規の訓練とは別に休日には市町村主催の射撃訓練に参加し射撃技術の維持・向上に努めなければならない。しかし、最近ではこの家庭における銃器の保管が問題になっており、自殺や犯罪に悪用されるケースも増えてきている。実際、2001年のツーク州議会銃乱射事件では、軍支給の自動小銃が犯行に使われ、14人の尊い命が犠牲になった。ただ依然、スイスでは自宅で銃器を保管するべきとの意見が強く、今後の成り行きは不透明である。
さらに、スイスはバチカンでローマ法王の身辺警護にあたる「スイス衛兵隊」も組織している。この身辺警護は1506年の法王ユリウス2世以来、500年以上にわたって今なお続けられている。ちなみに、衛兵になるには19〜30歳の独身で道徳的なカトリック信者であること、身長は174センチ以上であることなど多数の条件をクリアせねばならない。また契約期間は最低2年〜最高25年で、2年以上勤務したものは結婚も許されているという。
さて、スイスの安全保障政策を語る上で「国民皆兵」と並び、忘れてならないのは「民間防衛」の存在である。「民間防衛」とは、有事の際に民兵が外敵からスイス国土を守るのに対し、銃後で国民の避難・救助活動等に当たることを指す。スイスでは1962年に連邦司法警察省に「民間防衛局」が設置され、本格的な「民間防衛」体制が構築されたが、実施主体は市町村であり、連邦は核シェルターの経費負担や高額物資器材の購入と市町村への貸与など補助的な業務を行うことに限定されている。今、私の手元にある『民間防衛』は有事に備えスイスの各家庭に1冊ずつ配布されているマニュアル本である。この本には他国の侵略からスイスの「自由」と「独立」を守るために行うべき「民間防衛」として、災害救助の適切な対処、核攻撃を受けた場合の対処、隣国での戦争勃発とそれに伴うスイス侵攻への対処、そして占領軍が侵攻してきた場合の抵抗運動(レジスタンス)などが紹介されており、名指しこそしていないものの、当時の時代背景から考えると、旧ソ連をはじめとする東側諸国によるスイス侵攻をかなり意識したものだといえる。
現在、スイスでは約32万人の民間防衛要員が存在し、換気装置のある新型の核シェルターは540万人分が用意されており、旧型の核シェルター100万人分をあわせると人口の約90%をカバーできる態勢が整っている。これに加え、かつてスイスでは住宅を新築する際に核シェルターがなければ建築許可が下りなかったという事情から、現在でも核シェルターを備えている家も多い。これらを考慮すれば、実際、有事の際には相当数の国民がシェルターによって守られることになる。
また、スイスのパンは不味いことで有名だが、これは何もスイス人の料理の腕前が悪いのではなく、新鮮な小麦を毎年、有事に備え備蓄しているからに他ならない。つまり、スイスで食されているパンは1年前に収穫された古い小麦で作られているのである。また、国境近くの家屋は敵からの侵攻に備え、腰下の壁は小銃弾の貫通に耐えられるよう建築されているし、道路や橋梁などの公共施設は、敵を足止めするために破壊して障害化できるよう細工されている。さらに、首都ベルンから車で1時間ほど行った標高1200メートルの場所にある山岳保養地「カンデルシュデグ」には、有事の際の「戦時地下政府」が建設され、非常時には内閣や軍のトップがここに立てこもり陣頭指揮を執ることが出来るという。このように、有事に備え万全の態勢を整えるスイスだが、最近はその政策も徐々に変わりつつある。
東西冷戦の終結とともに、スイスが直面する脅威は他国の侵攻や核攻撃から、大規模テロや原発事故、さらには自然災害へと変化した。このような脅威に対抗するには、もはや伝統的な国防や民間防衛だけでは不十分で、科学技術や医療技術といった専門的な知識を総合的に動員する必要があった。1998年、民間防衛業務が司法警察省から国防省に移管され、国防と民間防衛を一体化して取り扱う体制が整えられたのも、脅威に対する総合的な動員の必要性を見越してのことである。一方、国防の分野でも時代に合わせた合理化が進められた。2003年、国防省は「21世紀の国防軍指針」を発表し、この指針は国民投票の上、大差で可決された。内容は軍の規模の縮小(35万人体制から22万人体制)や、退役年齢の引き下げ(42歳から30歳)、訓練の柔軟化(訓練日数は300日で据え置きにされたが、希望により、10年間予備役に就くことで一括してこなせるようになった) などで、民間防衛要員の数も32万人規模から12万人規模へと縮小が図られた。
最後になったが、2002年、スイス中部の町ツークでは、冷戦時代に秘密に建設されたミサイル基地が軍事博物館として一般公開された。また2006年にはスイス中部の町ルツェルンにある2万人を収容出来る核シェルターが、維持費用の高さから閉鎖されることになった。冷戦終結に伴い、スイスの安全保障政策は着実に変わり始めている。
5.おわりに〜今後の展望〜
西欧のことわざに「So do the Swiss」というものがある。その意味は「言うことは美しく、行うことはあざとく」である。今回のリサーチ・ペーパーでは、「永世中立国」スイスの裏側にある真実と、グローバル化が進む中で苦悩するスイスの現実を知ることが出来た。私は卒業論文で「日本の戦後外交・安全保障政策」を取り上げるつもりだが、その際、これまでのスイスの外交・安全保障政策を参考に、これからの日本の国際協力のあり方や、いわゆる東アジア共同体加盟の是非などに関する個人的な見解が述べられればと思う。
6.参考文献
・スイス政府編『民間防衛』(原書房、2003年)
・福原直樹『黒いスイス』(新潮新書、2004年)
・松村劭『スイスと日本・国を守るということ』(祥伝社、2005年)
・國松孝次『スイス探訪』(角川文庫、2006年)
7.参照URL
・同志社大学図書館データベース検索〜新聞記事〜(アクセス日、2008年1月12日)
http://www.doshisha.ac.jp/library/database/ej/main/right.html

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リサーチペーパー「スイスの外交・安全保障政策」前編

今日は後輩達の目の前で、学生生活についてスピーチをしなければならない日である。とりあえず、教授の手前、問題発言にだけは気をつけたい。
これより以下では、3回のゼミでまとめたリサーチペーパーの前半部分を貼り付ける。みなさんに御一読頂ければ幸いである。
1.はじめに
我々は「スイス」という言葉を聞いた時、まず初めに何を思い浮かべるだろうか。アニメ「アルプスの少女ハイジ」に出てくる、あの美しい山々に囲まれた雄大な風景であろうか。はたまた、「永世中立」の言葉からイメージされる平和愛好国家としての姿であろうか。もちろん、この2つのイメージは「スイス」のイメージを捉える上で間違ったものではない。実際、スイスを取り巻く豊かな自然環境は、現在、スイス経済を潤す貴重な観光資源となっているし、「永世中立」の外交方針もスイスにとっては譲ることの出来ない国是である。しかし、このようなイメージだけでスイスの実像を捉えようとするには少々無理がある。
今回のリサーチ・ペーパーでは、そんな「スイス」の実像に迫るべく、主に外交・安全保障の分野からスイスの政策を調査・考察していきたいと思う。尚、調査に当たっては最後に挙げる参考文献の他、主要4紙(産経・読売・毎日・朝日の各新聞)の記事も参考にした。
2.スイスの歴史〜建国からウィーン会議まで〜
ここでは、今回のリサーチ・ペーパーの主題である「スイスの外交・安全保障政策」を考える前に、建国からウィーン会議に至るまでのスイスの歴史について簡単に触れておきたい。
スイス建国は1291年8月1日、スイス中部リュトリの丘にて、ウーリ、シュヴィーツ、ニトヴァルデンの「原初三州」が、この地を支配していたハプスブルグ家の暴政に対抗し、自らの自由と自治を守るため「永久同盟」を結び相互援助を誓い合ったことに始まる。ちなみに、国名の「スイス」は「原初三州」の一つ「シュヴィーツ」の名に由来している。その後、スイスはハプスブルグ家との戦いに連戦連勝し、1415年、ついにハプスブルグ家の本拠地「アールガウ」を占領し、ハプスブルグ家を東方の辺境の地「オーストリア」に追い出すことに成功する。以降、スイスは着々と領土を拡大し、16世紀前半にはウーリ、シュヴィーツ、ニトヴァルデンの「原初三州」から始まった「永久同盟」は13州に膨れ上がっていた。このスイスの同盟締結による領土拡大は、1515年、「マリニァーノの戦い」でフランス軍に敗れるまで続けられた。
「マリニァーノの戦い」で勝利を収めたフランス軍は大敗を喫したスイス同盟軍と講和を結び、戦勝国としては異例とも言える多額の報償金を払った上で、スイス兵を自国の傭兵として優先的に供給させる協定を結んだ。当時のフランス国王・フランソワ一世は陸戦におけるスイス兵の精強さと忠誠心を認識していたのである。これ以後、スイス兵は自国の領土拡大ではなく、他国の傭兵としてヨーロッパ各地の戦場に借り出されることになる。精強で忠誠心のあるスイス兵の噂はヨーロッパ諸国に瞬く間に広がり、もはや戦場には欠くことの出来ない存在となっていた。また、スイスが外交的に「中立」を標榜するようになったのもちょうどこの頃である。スイスが中立を標榜するということは、すなわち、どこの国にでも傭兵を輸出する準備が出来ていることを意味する。当時のスイスは慢性的な人口増加に悩まされており、食えない余剰人口は必然的に外国に職を求めなければならなかった。その際、需要の多い傭兵は最も手っ取り早く、かつ、最も有利な条件で働ける職として認識されていた。このように、初期の中立政策はヨーロッパ諸国とスイスの傭兵供給をめぐる利害の一致から達成されたのであった。
ところで、スイスの長い歴史において、一度だけ他国による支配を受けたことがあった。それは1798年〜1803年の「ヘルヴェティア共和国」の時代である。これは革命後のフランスが反革命の中心勢力であったオーストリアに対抗する為にスイスに樹立した傀儡政権であるが、内部で特権化した旧勢力と形骸化した直接民主制に不満を募らせた住民との間で混乱が生じたのを察知したナポレオンは、すぐさま旧勢力と調停条約を結び政権は5年も経たずに瓦解する。しかし、その後もフランスとは「ライン同盟」における協力関係にあり、有事の際は共同作戦に従事しなければならなかった。この同盟関係は、1815年、ナポレオンがワーテルローの会戦に破れセントヘレナ島に流刑されるまで続くことになる。時を同じくして、1815年、オーストリアの宰相メッテルニヒの主導で開かれた「ウィーン会議」ではスイスに「永世中立国」としての地位が認められた。だが、それはナポレオン再興を恐れた周辺諸国が、スイスに一種の緩衝地帯としての役割を期待しつつ、スイスに「傭兵」供給を停止させ軍事力の固定化をはかるという狙いがあった。このようにスイスが正式に「永世中立国」として認められた背景には、「ナポレオン再興」への危機感から「勢力均衡」をはかろうとする周辺諸国の思惑があったのである。
以上が建国からウィーン会議に至るまでのスイス史の概略である。以下では、これらを踏まえた上でスイスの外交・安全保障政策を考察していきたい。
〜後編に続く〜

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